2005年12月22日

「本の万引をするつもりかい?」

浩は、思わず赤面して、不思議そうな顔をしている小僧にそれを返し、一冊だけを買って帰って来る。
 そんなことは、余裕のある生活をしている人には、恐らくただ馬鹿な、意志の弱いこととしてほか思えないだろうということは、浩自身も知っている。けれどもしばしばこういう心の経験をしている彼は、ほんの出来心で、反物などの万引をする女の心持がよく解った。幸(さいわい)自分は、思いきれるし、また対照となっているものが、それだけほか求めても得られないものではないから、自分自身ほか感じられない、内心の苦痛だけですむが……庸之助が、この店としては咎(とが)めずには済まされないことをしているとは、思うだけでも浩は辛かった。が、嬉しいことに、彼の不安は単に杞憂に過ぎなかった。帳簿には、一厘一毛、疑問な点さえもなかったのである。
 けれども、頭を集めて調べていた連中の中からは、
「なあんだ! 何でもなかったじゃないかい!」
という不満そうな、つぶやきが起った。上役の者までが、意外そうな――少くもただ安心したというだけではない――表情を浮べて、「偉い時間(ひま)潰しをやったなあ」と云いながら、帳簿を伏せるのを見た浩は、思わず愕然とした。ほんとうにゾッとした。
「彼が正直であったのが、皆は不平なのだ! 若し、一ヵ処でも掛け先を、ごまかしてでもいたら、どんなに噪(は)しゃぐつもりだったのだ!」
 憤り――友愛に強められ、燃え立った憤り――が、彼の胸一杯になった。何か云わずにはおられない感情が、喉元に込み上げた。けれども言葉が見つからなかった。何と云って好いか分らなくなって、彼はフイと、部屋を出てしまった。
 それからやや暫く、仲間の一人が彼を捜しに来るまで、浩は彼の「隠れ家」と呼んでいる石段で、種々な考えに沈んでいた。(K商店の二棟の建物を、接続している廊下の外に、六段ほど苔に包まれた石段がついていた。日光が、建物に遮られて、直射したことがないので、石段から拡がっている二坪ほどの地面には、一杯苔がついて、陰気ではなかったが、外のどこよりも落付いていた。浩はそこに腰をかけては考えるべきことを考えた。隠れ家というのが、自ずとそこを呼ぶ名になっていたのである。)彼は、どんな人に対してでも、善人だとか悪人だとかいう断定は下されないものだと思った。「まして、或る人のすることは、悪いに定まっているなどと思ってはすまない。互に許し合って行かなければいけない……けれども」彼は、憤りとか、憎しみとか、抵抗とかいうことを、全然、自分の心から除去してしまうことはとうてい不可能であった。「何か一つ過失をした者の前に、我々は決して、尊大に完全そうにかまえてはいけない。自分でもいつ、するか分らないじゃあないか?」浩は「お互に人間なのだから、出来るだけ愛しあって、仲よくして行かなければいけない」と思っている。そして、弱い者の前に、強がっている者を見ると腹が立つ。特殊な自分の権利を勢一杯利用してそういう特典を持たない者に誇ろうとする者に対して憤りを感じる。
岡山風俗
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2005年12月21日

  六

庸之助が去って、三日になり四日になった。ああして行きはしたものの、会わないで別れたことでもあり、葉書ぐらい寄こすだろうと、心待ちに待っていた浩は、その望みもそろそろ断念しなければならなくなった。興奮し通していた心持が、次第に落着くに従って、彼は、ほんとうの衷心から涙の滲み出るような思い出や、考えに耽り始めた。
 それは、ちょうどその月の決算にほど近い日であった。或る一人が不意に、庸之助の扱かっていた帳簿を、一応検べる必要を云い出した。庸之助のいた時分は、かなり彼を信用していたはずの者まで、今までそのことに不念だったのを、取り返しのならぬことをしたような表情を浮べて、昼の休みを潰(つぶ)して、数字、一字一字から、説明書まで検べて行った。何か面白い発見でもするように、大声で庸之助の書いた金額を代帳に引きくらべて読み上げるのを聞きながら浩は、妙な心持がした。辱かしめを受けているような、また安心と不安の入混った心持になっていた。
「庸さんには、絶対にそんな心配は無用だ!」
 浩はそれだけで満足していたかった。けれども、それを許さない、自分自身の心の経験を持っていたのである。
 限られた僅かばかりの金で、自分が望んで望んでいた本を買う。これと、これとを買いたいのに、持っている金では一銭足りないというとき――ほんとに持っている人から見れば、金銭という感じを起させられないほど僅かな一銭――、自分の心のうちには、実に言葉で表わせないほどの心持が起る。「文字」を尊重している彼は、著者がそれを完成するまでに注いだ心血を思うと、よほど法外だとでも思ったときのほか、価切(ねぎ)るということが出来なかった。古本屋――彼は新本を買うだけの余力を持たない。――に対しては、或る点からいえば馬鹿正直だともいえるけれども、彼の心は、或る人の本を見ると、真直ぐにそれを書いた人自身に対する尊敬となり同情となったのであった。で、彼は、そのどうしても手離さなければならない一冊の本を持って、一面理智の監視する前で、漠然とその足りない一銭の湧いて来ることや、主人がまけましょうと云うのを期待して見たりする。
 たった一銭、どこかの家の、火鉢の引き出しにさえ転っていそうな一銭が足りないばかりに、こんなにも欲しいものを見捨てて行かなければならないのか?「下らないなあ、定まっていることを、なぜそうまごまごしているのか?」冷たい笑いが、自分自身のうちから発せられるのを感じながらも、彼は欲しいという心持を押えられない。
千葉風俗
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2005年12月18日

自分の机に坐って、

あて途もなくあるものに、手を触れて心をまぎらそうとしていた彼は、鉄の文鎮(ぶんちん)の下に、一本の封書を発見した。ハッと思って、一度目はほとんど意味も分らずに読んだ。二度三度、浩は一行ほか書いてない庸之助の置手紙を離そうともしなかった。それは端々の震えた字――読み難いほど画の乱れたよろけた字――で、「もう二度とは会わない。親切を謝す。Y生」と、弓形(ゆみなり)に曲ってただ一行ほか書かれてはいなかったが、浩にとっては、それ等の言葉から三行も四行もの意味がよみとれたのである。
「木綿さん」というかわり、もう庸之助には、「火の子」という綽名(あだな)が付いていた。赤い着物の子で、それ自身もいつ、火事を起すか解らない危険性を帯びているからというのであった。
 平常からずいぶん反感は持ちながら、さほどの腹癒せもできずにいた者達は、庸之助の不幸をほんとに小気味よくほか思っていないことは、浩に不快なやがては、恐しいという感じを起させた。抵抗力のないものに対して、どこまでも、自分等の力を振りまわし、威張り、縮み上らせたがっているらしいのが、厭(いや)であった。雇人が勤勉であることを希望しながら、一種の雇人根性を当然なものとして扱いつけている、店の先輩達は、庸之助が去るときまで持続した、忠実な態度を、そのまま無邪気にうけ入れられないらしかった。こうなると、彼が正直で、よく働く若い者であったという、普通ならば、賞(ほ)めらるべき経歴まで、悪罵の種にほか、なろうともしなかった。甲が三つだけ彼を悪く云うと、乙は五つまで、丙は十までと、どんづまりまで悪いだらけにしなければ、気が済まないらしく見える。そして、今まで店内で起った種々の不祥事件――たとえば、ちょっとした金銭の行違いや、顧客(とくい)先の失敗とかいうこと――は皆、庸之助のせいにされた。何の罪もない彼を、寄ってたかって罵倒するのを、幾分か肯定し、援助するような表情をして黙って聞きすてて置く者などを見ると、浩は擲(なぐ)りつけたいほど、腹が立った。ひどいと思った。けれども、口で云うほど内心では庸之助に対して、好意も悪意も、さほど強くは感じていないことが次第に解って来た。
「あん畜生が、どうこうしやがった」
などと、平常は慎しまなければならない言葉も、或る程度までは思う存分ぶちまけられ、庸之助という主題に、関してだけは、下等な戯言(たわこと)も批評も、かなり黙許されているような店中の空気が、平坦な生活に倦怠している若い彼等を、十分興奮させているのが、浩には分り出した。すべてが興味中心で動いて行く。面白半分である。そして或る者は、幾分庸之助に同情を持ちながら、大勢に反した行為をするだけの勇気を持たないで済まないように思いながら、皆の中に混って心ならずも、嘲笑したり、罵ったりしているのも見られた。浩は庸之助に強い強い同情を燃やしながら、また一方には、仲間の者達にも、哀憐(あいれん)の勝った好意を持っていたのである。

人妻風俗
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2005年12月17日

2005-12-16 10:00:00 けれども

事件はまるで反対の方に進行していたのであった。有力な弁護があったりして、一旦帰宅を許されていた好親は、ちょうど好い工合にそのとき、息子からの手紙を受取り、返事を遣(や)った。が、それが東京へ着いたか着かぬに、彼の最も信用していた男が、予審でうっかり一言、口を滑らしたがために、好親の運命は、最も悪い方に定まってしまった。予審、公判、宣告、すべては順序よくサッサと運ばれ、彼は二年の苦役を課されたのである。
 庸之助の「信頼すべき父親」の一生に、最後の打撃が与えられた日の翌日は、祭日であった。
 浩は朝早く店を出て、十時過になって帰って来た。一歩、部屋の中にふみ込んだとき、浩は自分を迎えた数多(あまた)の顔に、一種の動揺が表われているのを直覚した。ざわめいた、落着きのない空気が彼の周囲を取り囲んだ。浩は、何か求めるように部屋中を見まわして、「どうかしたのかい?」と云おうとした刹那、その機先を制して、興奮した声で奥の方から、
「庸さんが帰っちゃったよ。親父が、牢屋へぶちこまれたんだとさ!」
と叫んだ者がある。訳の分らない笑い声が起った。そして誰も誰もが、変幅対の相棒を失った彼――何ぞといっては庸之助の味方になっていた彼――が、どんなにびっくりもし、失望もすることかというような、好奇心に満ちた目をそばだてた。けれども、皆は少しがっかりした。彼等の期待していた通りに場面は展開されなかったのである。浩は庸之助のことなどに無関心であるかと思うほど、平然としていた。「そんなことが、なんだい?」と云っているように見える。少なくとも、若い者達の予期を全然裏切った態度に見えた。が、彼の衷心はまるで反対であった。複雑な感動で極度に緊張した彼の頭は、悲哀とか、驚愕とか、箇々別々に感情を切りはなして意識する余裕を持たなかった。心のどこかに、大穴がポッカリ明いたようでもある。体中に強い圧(おもし)を加えられているようで、息苦しかった。目の奥で天井と床が一かたまりに見えるほど混乱しながら、傍で見れば、茫然と無感動らしい挙動で、浩は今まで庸之助の使っていた机上に、並べられてある遺留品を眺めていた。使いかけの赤、黒のインク壺、硯、その他塵紙(ちりがみ)や古雑誌のゴタゴタしている真中に、黒く足跡のついた上草履が、誰かのいたずらで、きっちり並べられてある。指紋まで見えそうに写っている足跡を見ると、浩は急に、年中湿って冷たかった、膏性(あぶらしょう)の庸之助の手の感触を思い出した。その思い出が、急に焼けつくほどの愛情を燃え立たせた。彼の心に、はっきりと淋しさが辷り込んで来た。涙がおのずと湧いた。
「とうとうこうなったなあ……。あの人も好い人だったのに!」
新潟風俗
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2005年12月16日

  五

「ホーラ見ろ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 庸之助は飛び上った。
 若し万一、かの記事通りの恥ずべき行為があったなら、親子もろとも、枕を並べて切腹するほかないとまで思いつめて、事実を訊ねてやった返事として、父自身で書いたこの、この手紙を貰ったのだと思うと、五日の間あれほどまでに苦しんだ煩悶が、驚歎せずにはいられない速さで、彼の心から消えてしまった。激しい嬉しさで、彼はどうして好いか解らなかった。ひとりでに大きな声が、
「ホーラ見ろ! 僕の思った通り、きっかりその通りじゃあないか! 見ろやい!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
と叫んで、じっとしていられない二つの手が、無意識に持った手紙をくちゃくちゃにまるめた。書面のあちらこちらに散在している「公明正大」という四字が、天から地まで一杯に拡がって、仁丹の広告のように、パッと現われたり消えたりしているのを彼は感じた。
「さすがは父さんだ。偉い! 見上げたものだ。なにね、そりゃ始めっからキットこうなんだとは思っていたんだが、ちっとばかり心配だったんでね、父さん! ハハハハハ」
 満足するほど、独りで泣いたり笑ったりしたあげく、融けそうな微笑を浮べながら、庸之助は部屋に戻ってきて、何か書きものをしている浩のところへ、真直に進んで行った。肩に手をかけた。
「オイ! よかったよ!」
 弾んだ声が唇を離れると同時に、肩に乗せていた彼の手の先には、無意識に力が入って、握っていたペンから、飛沫(しぶき)になってインクが飛び散るほど、浩の体をゆりこくった。
「う?」
「よかったよ君! もうすっかり解った。何でもなかったんだよ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 笑み崩れた庸之助の顔が、「あのことだよあのことだよ」と囁やいた。
「え? ほんとうかい? ほんとうに何でもなかったんかい? そーうかい! そりゃあほんとによかったねえ君! ほんとうによかった!」
 極度の喜びで興奮して、ほとんど狂暴に近い表情をしている庸之助の顔を、一目見た浩の顔にもまたそれに近いほどの嬉しさが表われた。
「よかったねえ。おめでたかったねえ……」
 浩は、庸之助の肩を優しく叩きながら、感動した声でいったのである。
「情けないが事実に違いないと思ったのに……。そうだったのか! ほんとうに何よりだ。嬉しいだろう? 君! 結構なことだったなあ!」
 庸之助は、翌日から浩の目には、いじらしく見えるほど、元気よく、一生懸命にすべてのことにつとめた。店の仕事はもちろん、自習している数学や英語にでも、今までの倍ほどの努力を惜しまない。そして、わざわざ浩を捕えては、「あのとき、君は分らないって云ったねえ」と、そのつど新しい喜びに打たれるらしい声で繰返しては、愉快げに笑った。
すすきの風俗
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2005年12月12日

手紙ばかり、いくら度々よこされても、

孝之進は上京する決心が着かなかった。金のできるあてもない。それをただ体ばかり運んでいっても仕方がないと思っていたのである。――藩の近習として、家老の父を持ち、ああいう生活をしていたこの自分が、今、娘の療治に使う金さえ持たないということを考えると、憤りもされない心持がした。どうにもならない時世が、あのときとこのときとの間に、手を拡げていることを孝之進は感じた。が、事態は終に彼を動かしてしまった。あるだけの金を掻き集めて、孝之進は上京したのである。
 東京に行ったところで、何一つ自分を喜ばせるものはないのだと、思いきめて来てみると、先ず第一停車場に出迎に来ていた浩を見たときから、それはまるで反対になってしまった。
 あんなに小(ちっ)ぽけな、瘠せた小伜(せがれ)であった浩が、自分より大きな、ガッシリと頼もしげな若者になっているのを、むさぼるように見ると、
「オー」
という唸り声が口を突いて出た。
「生意気そうな若者になりおったなあ」
 肩を叩きながら、彼は泣き笑いした。
 彼の一挙一動はひどく浩の心を刺戟した。身のこなしに老年の衰えが明かになって来た彼、少くとも浩の記憶に遺っていた面影よりは、五年の月日があまり年をよらせ過ぎたように見える彼に対して、浩は痛ましい感にうたれた。そして浩がさとった通り、孝之進は健康な息子に会うことも、生きられた――ほんとうに、もうすんでのところで、してやられるところだった危い命を取り止めた――娘に話すことがどのくらい嬉しかったか分らないのである。けれども、金のことになると――。孝之進の頭はめちゃめちゃになった。堪らなかった。そして歯と歯の間で、彼はいまいましげに唸るのであった。
 電車が! 自動車が吠えて行く。走る車、敷石道を行く人の足音。犬がじゃれ、子供が泣き、屋根樋に雀が騒ぐ……。自転車が蹴立てて通る塵埃(じんあい)を透して、都会の太陽が、赤味を帯びて照っている。
 正午(ひる)少し過ぎの、まぶしい町を孝之進は臆病に歩いて行った。何も彼も賑やかすぎ、激しすぎた。目が不自由なため、絶えず危険の予感に襲われている彼は、往来を何かが唸って駆け抜けると、どんなに隅の方へよっていても、のめって轢(ひ)かれそうな不安を感じた。縋(すが)る者もない彼は、脇に抱えた縞木綿の風呂敷包みをしっかりと持って、探り足で歩いた。国から持ってきた「狙仙」の軸を金に代えようとして行くのである。鈍い足取りで動く彼の姿は、トットッ、トットッと流れて行く川面に、ただ一つ漂っている空俵のように見えた。
「これはどんなものだろうな?」
 孝之進は、自分で包から出した「狙仙」を、番頭と並んで坐っている主人に見せた。
「さあ、どれちょっと拝見を……」
 利にさとい主人は、絵を見る振りをして、孝之進の服装(みなり)その他に、鋭い目を投げた。そして何の興味も引かれないらしい、冷かな表情を浮べながら、
「真物(ほんもの)じゃあございませんねえ……」
と云った。列(なら)べてある僅かの骨董などを、ぼんやり見ていた孝之進は、さほど失望も感じなかった。
「そうかな? 頼んだ人は(彼はちょっとためらった)真物に違いないと云っておったんだが……」
「ハハハハ。そりゃあどうも……。こう申しちゃ何でございますが、贋物(にせもの)にしてもずいぶんひどい方で。へへへへ」
 それから主人は、孝之進がうんざりするほど、贋だという証拠を並べたてた。
「が、せっかくでございますから、十円で宜しきゃ頂いときましょう。それもまあ、狙仙だからのことで……」
 孝之進は、主人が列挙したような欠点――例えば、子猿の爪の先を狙仙はこう書かなかったとか、眼玉がどっちによりすぎているとかいう――を、一つ一つ真偽の区別をつけるほど、鑑賞眼に発達していない。(若し主人のいうことが事実としたら)それに、また持って歩いて、どうするという気になれないほど、体も疲れている。「一層(いっそ)売……」けれども、考えてみればかりにも家老の家柄で、代々遺して来たものに、偽物のあることは、まあ無い方が確かだろうとも思われる。うっかり口車になど乗せられて堪るものかと感じた。で、彼は売るのをやめて、帰ろうとまで思ったが、差し迫っては十円あってもよほど助かる。彼はとうとう決心をした。そして、皺だらけな札と引きかえに、家代々伝わってきた「子猿之図」を永久に手離してしまったのである。
横浜風俗

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2005年12月11日

2005-12-10 10:00:00 「なぜです?

そんなことあ何んでもないじゃあありませんか、お互っこだもの……」
「そりゃああなたはそう思っていてくれるけれど……でも何だわね、あなたが親切にしてくれるほど、私は親切じゃあなかったのは、ほんとうよ」
 口を開(あ)こうとする浩を遮(さえぎ)って、お咲はつづけた。
「姉なんだから、そのくらいしてもらうのは当り前だと思っていたんだけれど、この頃は何だか今まで、皆にすまないことばかりしていたような気がしてたまらないのよ。ずいぶん怨んだり――そりゃあまさか口には出さなくってもね――したことだってあるのを、皆がこうやって私一人のために尽してくれるのを思うと……(涙がとめどなく落ちて、言葉を押し殺してしまった)ほんとに有難いの。私が悪かったことを勘弁して欲しいのよ浩さん、私もできるだけ親切にするわこれから……。貧乏すると心が悪い方へばかり行くわねえ」
 浩は大変嬉しかった。姉と一緒に涙をこぼしながら、一言、一言を心の底から聞きしめた。独りで堪えなければならない苦痛で、堅たくなったような胸を、やさしく慰撫されるのを感じた。彼が折々夢想する通り、身も心も捧げ尽してしまいたいほど、尊い立派な心を所有する女性のようにも思われる。彼の年がもっているいろいろな感情が燃え立って、どんな苦労も厭わないというほどの感激が、努力するに一層勇ましく彼を励ましたのであった。
 お咲のこの涙のこぼれるやさしい心持は、彼女の周囲のすべての心を和らげた。私立のとかく三等の患者などに対して、一種の態度を持つ癖のついている病院内の者まで、お咲に対して圧迫するような口は利けなかった。皆が彼女に好意を持ち、「五号の患者さんは、何て心がやさしいんでしょうねえ」などと看護婦が噂するほどであった。が、一日一日とかさんで行く費用が、家族の頭を苦しめる問題であった。金策のため、孝之進の出京はますます必要になってきたのである。
広島風俗
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2005年12月10日

    四

薄紙を剥ぐように、というのは、お咲の恢復に、よく適した形容であった。全く気の付かないほど少しずつ彼女はなおってきた。血色もだんだんによくなり、腕に力もついてくると、彼女の全身には、恢復期の何ともいえず活気のある生の力が充満し始めた。そして、哀れなほど、若い母親として送った二十(はたち)前の凋(しぼ)んでしまった感情が、またその胸に蘇(よみがえ)ったのである。
 寝台の上に坐っているお咲の目には、開け放した窓を通じて、はてもない青空が見渡せた。かすかな風につれて窮まりもなく変って行く雲の形、あかるい日の光を全身にあびて、あんなにも嬉しそうに笑いさざめいている木々の葉、その下にずらりと頭をそろえている瓦屋根。
「ア! 烏が飛んできた! 猫が居眠りをしている……。まああそこに生えているのは、何という草なんだろう? おかしいこと、あんな高い屋根の上に――、ずいぶん呑気そうだわねえ……」
 子供のように、微笑みながら、先の屋根に、キラキラしながら、そよいでいるペンペン草を眺めていると、夏の眠い微風が、静かに彼女の顔を撫でて通った。彼女の耳は、風に運ばれてきたいろいろな音響――かすかな楽隊、電車のベル、荷車のカタカタいう音、足音、笑声――をはっきり聞きとった。と、同時に、
「あ……私は助かった、ほんとに助かった!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
という感じが、気の遠くなるような薫香をもって、痛いほど強く彼女の心をうった。
「ほんとに私は助かった。こうやって生きていられる!」思わず嬉し涙がこぼれた。魂の隅から隅まで、美しい愛情で輝き渡って。誰にでもよくしてあげなければすまない心持になり、彼女は歓喜の頂点で、啜泣いたのである。
 この不意な、彼女自身も思いがけないとき、目の眩むほどの勢で起ってくる感激は、珍らしいことではなかった。食事の箸を取ろうとした瞬間に、二本の箸を持っている手の力が抜けるほど、心を動かされたこともある。軟かい飯粒を、一粒一粒つまみあげて、静かに味わって喜ぶほど、彼女のうちにはこまやかな、芳醇(ほうじゅん)な情緒が漲(みなぎ)っていたのである。
「私ほんとうに今まで浩さんに、済まないことばっかりしてきたわねえ。どうぞ悪く思わないで頂戴」
 二人は向い合っていた。
福岡風俗
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2005年12月09日

その晩彼は、いろいろなことを考え耽った。

「或る方へ或る方へと向って押して行く力に抵抗して、体をそらせ、足を力一杯踏張って負けまい負けまいとしながらいざというときに、ほとんど不可抗的な力で、最後の際まで突飛ばされる心持を、或る時日と順序をもって、こういう事件を起す人々は感じないだろうか? 悪そのものに、興味を持っているのでない者は、踏みこたえよろよろとする膝節が、ガックリ力抜けするまでに、どのくらい体中の力を振り搾るか分らない。けれども現われた結果は、なるようにしかならなかったのである」
 浩は、自分の内心に起る、実にしばしば起る、強みと弱みの争闘――自分という人間が、その長所に対して持っている自信と、その弱点に関する自意識との争――がもたらす大きな大きな苦痛を思うと、また、自分が或るときは非常に善い人間であるが、或るときはもうもう実に卑小な人間にもなるということを思うと、とかく踏みとどまりきれずに、どうにもならない際まで行ってしまう世間多数の人間を、「あいつは馬鹿だ!」とか、「思慮が浅いから、そうなるに定まっているのさ!」などと、一口には云いきれなかった。お互の長所を認めて、尊重し合って行くことは立派だ。けれどもまた、互に許し合い助け合って行きたい弱点も各自が持っているのだと思うと、浩は涙がこぼれた。
 庸之助が仲間の目を盗んで、あの記事の出ている新聞を隠そうとして、畳んで懐に入れてみたり、机の中に押し込んだり、それでも気が済まぬらしく、鞄まで持ち出して、部屋の隅でゴトゴトやっているのをみると、浩はオイオイ泣きたいような心持になった。
「君はきっと、出来るんなら、日本中の新聞を焼き尽してでもしまいたいんだろう? なあ庸さん!」
 庸之助の父のような位置にあり、境遇にある人が、今度のような事件に、全く無関係であり得ようと、浩には思えなかった。

大阪風俗
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2005年12月08日

庸之助は、

僅かずつ前へ動いて行く足の先を見ながら、独言するように云った。
「ああいう役所にいて、頭の下らない者は損だよ。今度のことも、いずれ平常から親父を憎んでいる奴がこのときこそと思って、企らみやがったのだと思うがなあ……。皆世の中が腐敗したからなんだ。親父のように硬骨な者は、出来るだけすっこませようとばっかりしやがる!」
 常から、現代の種々な思想、事物に反感を持って、攻撃ばかりしている庸之助は、今度のことに持論を一層堅たくしたらしく見えた。彼が「今」に生きている人間であるのを忘れたように、この事件のかげに潜んでいることを罵倒した。
「君は僕の親がそんな破廉恥な所業をすると思うかい? え?」
 庸之助は、浩が当の相手のように、意気まいて、つめよりながら鋭く訊ねた。
「僕の親父はそんな人間だと思うかよ!」
「そんなことはあるまいとは思うが、僕には分らない」
「なぜ分らないんだ?」憤りで声が太くなった。
「なぜ分らないんだ? 君には、悪いことをしそうな人間と、善いことをしそうな人間とが分らないのか? かりにも僕の親が、僅かな金、いいか金のためにだよ、祖先の名を恥かしめるような行為をするかというんだ! 貧乏したって武士は武士だ、そうじゃあないかい、馬鹿な!」
 興奮してきた庸之助の眼からは、大きな涙がこぼれた。啜泣(すすりな)きを押えようと努める喰いしばった口元、顰(しか)めた額、こわばった頬などが、動く灯かげをうけて、痛ましくも醜く見えた。彼の胸は、八裂(やつざ)きにされそうに辛かった。
 世の中の「悪」といわれるような誘惑や機会は、たといそれがいかほど巧妙に装い、組み立てられて来ようとも、信頼すべき父親と自分の、士(さむらい)の血の流れている心は、僅かでも惑わせないものだという、平常の信念に対して、このように恥辱な事件に父の名が並べられるというのは! あんまりひどすぎる。彼は大地が、その足の下で揺ぐように感じた。口惜しい、恥かしい、名状しがたい激情が、正直な彼の心を力まかせに掻きむしった。あてどのない憎しみで燃え立って庸之助は、
「うせやがれ! 畜生!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
と叫んだ。往来の者が皆この奇怪な若者に注意した。そして或る者は嘲笑い、或る者は同情し、恐れた若い女達は、ひそかに彼の方を偸(ぬす)み見ながら、小走りに駆ぬけて行った。
 ずいぶん長い間歩いていつもの部屋に帰るまで、浩はほとんど一言も口を利かなかった。どうしても口を開かせない重いものが、彼の心じゅうを圧しつけていたのである。
池袋風俗
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